黒田官兵衛×但馬むらおか

黒田官兵衛×但馬むらおか - 黒田孝高・黒田如水

ただいま、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」にて、好評放送中の人物「黒田官兵衛」。実は、私たちの地元・但馬むらおか、香美町村岡区黒田との関わりが見つかりました。寺を再建した記憶が、古い書物に残っているなど、新聞でも取り上げられ、注目を浴びています。

官兵衛は村岡に移住? 歴史の謎に迫る講演会、8日、兎塚地区公民館

「兎塚の歴史と文化を学ぶ集い」
「黒田官兵衛と兎塚の地を結びつけるもの」 
講師: 古川哲男 2014/3/8(土) 13:30~ 兎塚地区公民館 入場無料

 

但馬むらおかとの関わり

慶長年間、「黒田村」に来て閑居した。

神照寺蹟

黒田地区内にある神照寺の跡。石碑に「如水禅苑」が造られている。いまは、「神照寺蹟」の石碑以外に、入り口付近には、門がある。近くには、墓群もある。

第6章・伝承「黒田如水と黒田」

黒田孝高如水は、豊臣時代の名高い武将であります。

この孝高は慶長年、黒田村に来て、ここに閑居されていたといわれています。ここで日向山神照寺を再建されましたが、火事にかかって位牌その他、書類及び古器などことごとく焼失しました。孝高はここで薨じたもうたといい、石碑はおよそ五丁余聞南、森脇の上の山林中にあります。

元禄年中筑前の福岡から、家臣の間某が、絵図面、書類を携えて取り調べにきました。村の小川や寺のありさま、笠波一里塚の三本松、丹土川、新宮及び丸山などの事由、明細は寸分違わないのです。

その頃、村役人はもし領主のお咎があっては村中迷惑だと、相談して偽わりの証言をし、間氏を欺いて帰らせました。その後、神照寺住僧、村人たち心ある者はたいそう後悔しました。

村岡町誌通史・下、p.245より

福岡市美術館「黒田家のご先祖さがし」

先祖の歴史を振り返ろうと、3代藩主光之の時代、「黒田家譜」の編纂を開始、宝永元(1704)年に15巻本が完成と紹介されていました。

福岡市美術館「黒田家のご先祖さがし」より

増補七美郡誌稿巻之三・黒田村

村岡町誌通史の原文とみられる項です。黒田を紹介する文は、増補版と初版で全く同じ内容でした。

増補版は、昭和48年に、非売品で、500部が発行されています。元々は、明治39年2月の発行で、八木玄蕃が編集人。明治に発行されたものは、寄付を募って200部が発行されています。

増補七美郡誌稿、p.114より

戦国武将・軍師官兵衛、黒田(村岡)移住の伝承

旧七美郡の伝承を集めた『七美郡誌稿』には「慶長のころ、黒田如水公は隠居した後に黒田村静かに暮らし、日向山神照寺を再建した。ここで亡くなり、石碑は森脇の山林にある」という内容が記されている。さらに「元禄のころ、黒田家臣が調べに来たが、領主のおとがめがあっては迷惑だと偽リの証言をして帰らせた」との記述もある。この内容は、1982年発行の『村岡町誌下巻』にも「黒田如水と黒田」として掲載されている。

香美町村岡観光協会・西村吉雄会長

黒田に住んでいたとしたら、名勝の猿尾滝にも遊びに行ったはず。官兵衛が訪れたとして、滝に新たな魅力を加えたい。

郷土史研究家・古川哲男さん(78)

黒田に住んでいた確証はないが、墓所らしき跡を調査したこともある。官兵衛は村岡藩主の山名豊国と一緒に連歌を作るなど関係が深かった。

日本海新聞、2014/1/17掲載記事より

黒田官兵衛について

黒田官兵衛の人物像

  1. 豊臣秀吉の軍師(参謀として活躍)
    秀吉に「世に怖しきものは徳川と黒田なり」といわしめた。
  2. 戦いの名手
    生涯戦いで負けたことがないといれれる。
  3. 築城の名手
    福岡城、姫路城、大阪城、高松城、広島城の築城に関わった。
  4. 姫路城代となった
    永禄10年(1567年)。
  5. 茶道を学んだ
    千利休に学び、その時、山名豊国とも交流したといわれる。
  6. キリシタンであった。
    洗礼名は「ドン・シメオン」。

黒田官兵衛の晩年

中央の政治に関与することなく隠居生活を送った。
太宰府天満宮内に草庵を構えて隠居した。

参考